『そのうちなんとかなるだろう』を読んだ

「なんとなく」という自分の気持ちを大事にして従おう。


内田樹の自叙伝。「そのうちなんとかなるだろう」というタイトルと、なんだかわくわくさせる内容紹介に惹かれて読んでみたけど、これが非常に面白かった。内田樹の名前は知っていたけど、本は一冊も読んだことなかった。そんな状態でも自叙伝なので問題なく読めた。当たり!って感じの気持ちよさがあった。



心と直感に従う勇気を持つこと。だから「なんとなく」やりたいことはやればいいし、「なんとなく」やりたくないことはやらないほうがいい。細かい論理や数字ではなく、曖昧な感覚や感情を大事にすること。そんな大切なことを改めて気付かせてくれた。


良い本だと思う。漠然とした将来に不安がある若い人、歳を重ねて今の立場と理想の自分の動けなさに悩んでいる人、どんな人でもこれを読んだら前向きになれると思う。そして他人に優しくなれると思う。不寛容な社会になりつつある今こそ(自叙伝だけど)この本のような考えが大切だと思う。


以下、読んで心にぐっと来たりほーっと感心した箇所の引用。
「たとえ家族であっても、どれほど親しい間であっても、相手にどれほど非があっても、それでも「屈辱を与える」ことはしてはいけない。これは父母から学んだ最もたいせつな教訓だったと思います。」


「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」ということが武道のめざすところです。」


「父子家庭を始めたときに自分で決めたことが一つありました。それは「仕事で成功する」ことをもう求めないということでした。」


「そして、すべてにおいて家事育児を最優先することにしました。「家事育児のせいで、研究時間が削られた。子どものせいで自己実現が阻害された」というふうな考え方は絶対にしない。朝晩きちんと栄養バランスのとれたおいしいご飯を作って、家をきれいに掃除して、服を洗濯して、布団をちゃんと干して、取り込んだ洗濯物にきれいにアイロンかけして、服のほころびは繕って……ということができたら「自分に満点を与える」ことにしました。家事育児仕事が終わって少しでも時間が残っていたら、それは「贈り物」だと思ってありがたく受け取る。その「贈り物としての余暇」に本を読んで、翻訳をして、論文を書く。そこで達成されたものは「ボーナス」のようなものなのだから、あれば喜ぶけれど、なくても気にしない。そういうふうにマインドを切り替えました。」


「毎日教務の仕事と授業のために出勤する。会議と会議の合間、授業と授業の合間にたまたま空き時間があったら、その時間を天からの「贈り物」と思って、そこで本を読み、原稿を書く。そこで本が読めたり、原稿が書けたりしたら、それは「ボーナス」だと思う。育児のときに僕が採用したルールそのままです。こうしたほうが精神衛生上は楽なんです。」


「家事は公平に分割できるものではありません。やるべきこと、やっておいたほうがいいことは家の中にはいくらでもあるからです。それを全部リストアップして100%公平に分担しようとすると、リストアップして、分担を決める話し合いだけで途方もない手間がかかってしまう。」


「家事もそうです。どう公平に分担すべきかについて長く気欝なネゴシエーションをする暇があったら、「あ、オレがやっときます」で済ませたほうが話が早い。」


「人間を疲れさせるのは労働そのものではなく、労働をする「システム」を設計したり、管理したり、合理化したりすることだということをそのときに学びました。」


「対談が得意でない人というのは、たぶん「ぜひ申し上げたいことがある」という人だと思うんです。相手がどういう話題を振ってきても、それを無理やりにでも自分の関心あるテーマにひきつけて、何とかして自分が言いたいことを言おうとする。人情として当然のことなんです。でも、そうやって毎回「自分が言いたいこと」を言っていると、対談相手が替わっても、自分が話していることはあまり変わらないということになる。それだと、本人が退屈しちゃうんです。」


「もしコツがあるとそればそれは、相手の一番いいところを探して、そこにフォーカスしてお付き合いするということじゃないかと思います。どんな人でもいろいろな面がある。いいところもあるし、嫌なところもある。面白いところもあるし、つまらないところもある。ユニークなところもあるし、凡庸なところもある。あって当然です。僕はその人の一番「いいところ」、一番「面白いところ」、一番「ユニークなところ」だけを見るようにしています。」


「どうすれば、クリエイターの質が上がるかというと、これはもう「いいところをほめる」しかないわけです。ほんとに。その結果、すばらしい作品が仕上がって、それを享受することで利益を得るのは僕たち自身なわけですから。僕は別に「おべんちゃら」を言えと言っているわけじゃないんです。火を熾すときに、うちわであおいだり、ふうふう息を吹き込んだりするのと変わらない。僕は火にあたりたいわけです。だから、どうすれば火がおこるかを考える。」


「人に質の高いものを生み出してほしいと思ったら、いいところを探し出して、「これ、最高ですね」「ここが、僕は大好きです」と伝えたほうがいいに決まっている。少なくとも僕はそうです。批判されたら落ち込む。ほめられるとやる気になる。当たり前ですよ。」
「だから、僕はこの世界を、豊かな才能と、彼らの創り出した作品によって満たされたものにしたいと願うので、批判するよりはほめ、査定するよりは期待するようにしています。今の話は創作についてですけれど、それとまったく同じことは教育についても言えるんです。」


「トラブルというのは、いなくてもいいときに、いなくてもいいところにいるせいで起きるものです。」


「決断とか選択ということはできるだけしないほうがいいと思います。右の道に行くか、左の道に行くか選択に悩むというのは、すでにそれまでにたくさんの選択ミスを犯してきたことの帰結です。ふつうに自然な流れに従って道を歩いていたら、「どちらに行こうか」と悩むということは起きません。日当たりがよいとか、景色がいいとか、風の通りがいいとか、休むに手ごろな木陰があるとか、そういう身体的な「気分の良さ」を基準に進む道を選ぶ人は、そもそも「迷う」ということがありません。」


「いまは雇用環境が悪化しているために、過労死寸前まで働かされている人がたくさんいます。そういう人は、一度病気に倒れてからようやく生き方を変えるということになる。でも、病気から無事に回復できればいいですけれど、回復のむずかしい傷や疲れを負い込むことだってあります。だったら、そんなところまで追いつめられる前にとっとと逃げ出したほうがよかった。」


「身体が厭がって、出社しようとすると胃が痛くなるとか、頭が痛くなるとか、そういう自然な身体反応があったはずです。それは身体が「命が削られている」ことについて、アラームを鳴らしているのです。身体だって必死なんです。でも、それに耳を塞いで、最後の最後に病気になるまで働き続けた。やりたくないことは、やらないほうがいい。」


「稽古に行くつもりだったけれど、朝起きてみたら「なんとなく行きたくないな」と思ったら、その直感を優先した方がいい。身体が「行ってはいけない」とアラームを鳴らしているんです。そういうときは身体の発信するシグナルに従う。それを無視して出かけると、道場で怪我をするとか、人間関係のトラブルを起こすとか、行き帰りの路上で思いがけない災厄に巻き込まれたりする。当たり前ですけど、身体が「行きたくないよ」と警告を発しているのを無視して、いわば「アラームを切って」出かけているわけですから、センサーが働かない、だから、ふだんだったら気づくはずのことに気づかない。人の動線を塞いだり、話しかけられたのに答えなかったり、冗談を本気にしたり、そうやって要らぬトラブルに巻き込まれる。それが「機を見る、座を見る」ということです。頭の中で考えた利害や正否の判断よりも、自分の直感の声に従うということです。」


「結婚の幸福度を決めるのは、なんだかんだ言っても最終的に自分の「幸福になる力」です。それは友だちと仲よくするのと基本は同じです。相手の「いいとこ」を見て、それに対して敬意と好奇心を持つ。そうすれば、お互いに「いいとこ」を選択的に相手に示そうとするようになり、「やなとこ」はあまり用事がないので後景に退く。」


「後悔には2種類があります。「何かをしてしまった後悔」と「何かをしなかった後悔」です。取り返しがつかないのは「何かをしなかった後悔」のほうです。「してしまったことについての悔い」は、なんだかんだ言ってもやったのはたしかに自分なんです。そのときには自分がやりたいと思って、やるべきだと思ってやったことがうまくゆかなかった。だから、それが失敗したとしても、それについては自分で責任を取るしかない。その失敗を糧にして、同じ失敗を繰り返さないようにすればいい。そうやって人間は成長してゆくんですから。でも、「しなかった後悔」には打つ手がありません。というのは、「しなかった後悔」には後悔する主体がいないからです、」


この先にさらに心に来る言葉があったけどそれは最後まで読んでみたらわかる。


そのうちなんとかなるだろう

そのうちなんとかなるだろう