『世紀末の隣人』を読んだ

どこにでもいる、それこそ隣人かもしれないと思わせる者たちの12の事件について書かれたルポルタージュ
99年の池袋通り魔殺人、『愛する二人別れる二人』のやらせ問題、「お受験問題」と騒がれた幼女殺人事件、「てるくはのる」の殺人事件、お坊さんになろうとする社会人、新潟少女監禁事件、田舎暮らしに憧れるもその厳しさに直面する人たち、「17歳」が危険な単語として扱われたバスジャック事件、和歌山ヒ素カレー事件、コストカッターのゴーン氏にカットされた工場の人たち、33年周期と言われさびれていくニュータウン、今も昔もある東京タワーと今はないけど当時は大人気だったAIBO・・・
連載されたのは2000年。どれも当時非常に話題になったものばかりだ。それらを重松清が内部を深く解き明かしていくのではなく、外側を取材し読み物作家としての視点で書いている。
しかし、これらを今読んでも十分に価値がある。いや、今こそ読む必要があると読了後思った。
今の繁栄の陰の部分、今も変わらないもの−『隣人』は2006年の今も隣人なんだと感じた。
今また栄光を取り戻し勢いのある日産自動車も、その陰では容赦ない工場閉鎖をした。「モノより思い出」と言った会社には、働く人にとって大切な家族や故郷、マイホームというものを考えず、単に「工場のライン」と同じと考え異動か退社を迫った事実がある。今の繁栄の陰の部分。
さすがの重松清も17歳の起こした事件で文中に書いた母親殺しの少年が、「人を殺した時の快感が忘れられなかった」と言って何の関係もない姉妹に対しまた殺人を起こすとは予想できなかったと思う。ここの部分は2006年の今読んで衝撃を受けた。
和歌山ヒ素カレー事件で町内全体が「劇場」となり、住人同士が疑いあいマスコミが報道をどんどん過熱させていくという図はまさに今起こっている秋田の児童殺人事件にぴったりと合う。和歌山の章を読んで、「ああこの秋田の事件の町も二度ともとの姿になることはないんだな」と思った。隣人が容疑者ではないかという疑念、マスコミの報道と推測は過熱していくばかり。和歌山が秋田に変わった、今も変わらないもの。
当たり前だけど20世紀、1999年、2000年に起こったことは21世紀の2006年の今に影響している。もちろん明るいこともあるけど、今の陰になった部分、今も変わらずただ年と舞台が変わっただけということもある。忘れてはいけないことがある。
「隣人」はすぐそこにいるかもしれないし、自分自身が「隣人」になるかもしれない。

世紀末の隣人 (講談社文庫)

世紀末の隣人 (講談社文庫)