『陰摩羅鬼の瑕』を読んだ

1200ページ強。『鉄鼠の檻』なみの厚さだった。『鉄鼠』で禅宗のことが語られていたのに対し『陰摩羅鬼』では儒教
今回も題名が非常にうまい。『陰摩羅鬼』の『瑕』、まさにぴったり。テーマは儒教と死だと感じ取った。儒教と死が鳥の城に巣くい花嫁連続殺人事件となっている。既に読んでいた京極堂番外シリーズの『百器徒然袋――雨』で榎木津が関口と白樺湖に行ったというのはこのことかとわかり、こっちも読んでいてよかったと思った。
『存在しない犯人。それは鬼神だ。』『京極堂、「鳥の城」へ。』と帯に書いているが、儒教と死に加え「存在」というのも重要な概念になっている。犯人は存在しなかったし、鬼神はいた。京極堂の憑物落としで全てが明らかになったときそんなことがあるのか、と思った。『吾、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん―――。』と本編最初の一文にある言葉とはこれを指していたのか、と思わず唸った。
ややネタバレ気味になるけれど「死とはなにか」ということは非常に難しいことだと思った。「生命活動が止まった状態」といえばじゃあ生命活動とは何か、ということになるし、心臓が止まった長時間止まった状態が死だといえば、心臓が長時間止まっても髪や爪は伸びていくからまだ生きているのではないか、となる。そう考えると「死とはなにか」ということに対する答えは簡単に出せそうにない。しかし常に身近に考えることは日常生活において重要なことだと思う。
前作の『塗仏の宴』でいよいよ壊れた関口が今作でやや回復したのがよかった。前半はもう関口ダメだろうと思っていただけに嬉しかった。
姑獲鳥の夏』から一年後の夏ということで、『姑獲鳥』との繋がりも強く感じた。京極堂の「姑獲鳥」と「ウブメ」の講釈から林羅山儒学、そして鳥の城、と長いながらも見事に憑物落としへの準備ができあがっている。
ただ、今回は全体的にこぢんまりとしていたのがやや残念だった。憑物落としというか真相も確かに納得し前の章を読み返すほどよく構成されているが、場の狭さと時の短さ、スケールの小ささが感じられて驚愕にまではいたらなかった。
それでも次が読みたくなる。京極堂シリーズに憑かれている。

文庫版 陰摩羅鬼の瑕 (講談社文庫)

文庫版 陰摩羅鬼の瑕 (講談社文庫)