納得できない弱い自分

ぐだぐだしてーと思う自分になんとか勝って早朝から本業。日曜なので自宅でいいやと思い、コーヒーの粉とフィルターを何度も換えて、カフェイン三昧の中ヒッキー。読書とゲームを間に入れて頭を回転させる。また0から作らないといけないので、理論のところから間違っちゃいけないという恐怖がある。しかも理論が難しい。これを理解して使えるようになれというのか・・・と文句言いつつやる。でも進まない。当たり前。
そんな負の状態が続くと愚痴りたくもなる。0から作って成果を出す場合と既存のものを使って成果を出す場合、どちらが成果を出しやすいかといえば後者になる。ぶっちゃけ値変えるだけでかなり派手に見える成果を得ている人もいる。そうなると0から作ってそれからいろいろといじる側にすれば追いつかない。たとえ先行していても追いつかれる。もちろん同じことをやっているわけではないので追いつくとかそういうのはナンセンスな話だけど、「成果出せていますか」という問題になると後者のほうが単純にできているということになる。
私は「それはないだろ」と思う。今の環境にないから作る、もしくはさらに上級の今までにないものを作る、ということをしている人にとって、そういう人と同じように見られたり劣っていると見られるのは納得いかない。
身近にいる人たちならどういう「過程」で「成果」を出そうとしているか知っているので、成果の派手さやすごさでは判断しない。「それ上の人が作ったのをいじっているだけだよね」ということになる。しかし身近な人たちではなくもっと上の人や、発表という場になるとそういう「過程」は関係なく、「成果」だけが判断材料になる。「おお、いいねえ」ということになる。
既存のものの原理さえ知らないのに使っていいのか、本質を知らずして応用に持ち込んでいいのかと思う。
まあそんなことを梅雨の季節が後押ししていじいじと、うじうじと考える。嗚呼こんな汚い自分がいるってわかっていて、嫌だなあと思うのに書かずにはいられない。書いている自分もわかっているから嫌だ。
この前飲んで、帰り道が同じだった友達が同じような話を私にしてきた。同僚と同じ道を進むが、同僚はもう環境が整っていて成果が非常に出しやすいもの、友達は理論や環境作りから始めるものと対照な状況になっているという。分野が同じでそういう状況なのはとても辛いと自分の経験上わかる。
私のようなすぐに弱音を吐くダメ人間とは違い、その友達は何事も諦めず本当に強い人間だ。その友達が酒が入っているとはいえそのようなことを言ったということは、よほど今の状況が納得いかないのだと思う。私も同じ状況だったので、夜道ひたすら話していた。たとえ成果が出るのが遅くてもわかってくれる人が現れることを待つしかない。
なんだかんだで長く愚痴ってしまう。しょっぱい。こうなったらそんな人たちを上回るような成果をしっかり出してやるっていう気持ちでやるしかない。
まあ結局最近のこういうことから私が思ったことは、
“人生とは旅であり、旅とは人生である”
ということだ。