ショートフィクション 『僕のお母さん』

ありがとう、お母さん。


僕のお母さんはヘルパーの仕事をしています。
お年寄りを相手にすることが多いです。そして寝たきりのお年寄りを相手にすることが多いです。まだ僕が実家にいた頃「惚けて寝たきりになったら殺しちゃっていいから」とよく言っていました。「何馬鹿なこと言ってんの」と流していましたが、実際の介護の現場を近くで見ているからこそ言える言葉なんだとずっと後で気付きました。
今も何馬鹿なこと言っているんだと思います。お母さんが惚けても寝たきりになっても絶対に殺すことも見放すこともしません。例え僕のことを忘れてしまってもかまいません。
僕のお母さんはお母さんのお父さん、つまり僕のおじいさんの世話も時々しています。おじいさんは元軍人で、毎日昼間からビールを飲むほど元気だったのですが、ここ数年は体調を崩し最近は介護用ベッドで寝たきりの生活です。離れているので時々しか行けないらしいですが、大人用紙おむつなどを持って行って話をしながら世話をいるようです。
その時におじいさんが便秘気味の時はお尻の穴に指を入れてお通じがよくなるようにしています。それでかなり体調が良くなるらしいです。実の父のお尻の穴に指を入れられるお母さんはすごいと思いました。
仕事の一つとして普段からやっていると言っていました。初めてその話を聞いた時本当にお母さんを尊敬しました。お母さんにとっては当たり前のことかもしれませんが、僕にとってはすごいことでした。
躊躇せず他人のお尻に指を入れられるなんてすごいと素直に思いました。「辛くないの?」と聞いたら「なんで?ずっと出ないうんち出たらすっきりするでしょ。それができないなら助けてあげなきゃだめじゃない。あんた汚いと思っているかもしれないけど汚くもなんともないよ」と言っていました。その話を聞いてさらにすごいと思いました。


お母さんとお父さんの給料から僕の授業料を出してもらっています。お母さんが毎日朝早くからいろいろな家を回り、時には他人のお尻に指を入れて一生懸命働いて稼いだお金で授業料を出してもらっています。そのことをわかっているのにさぼったり遊んだり身が入らなかったりだらだらと過ごしたりしてしまいます。わかっているのにできない、一番ダメな行為です。ごめんなさい。そんな僕になぜ授業料を出してくれるのかわかりません。
僕のお父さんもお母さんも大学に行っていません。お父さんは中学校を卒業してすぐに働き、お母さんは定時制に通って資格を得ました。高校三年の三者面談で担任の先生に「うちは私も父も何も大学のことわからないので先生どうかお願いします」と頭を下げたお母さんを見て優しさを知りました。実は僕のことを思っていてくれたんだなと感じました。
子供の頃から一度も成績のことについて聞かれたことはありませんでした。僕が通知表を見せるまで何も言いませんでした。見せても毎回「この成績がいいか悪いかわからないけど頑張ったんでしょ。よくやったじゃない」といった感じでした。三者面談の時のお母さんの姿は今でも思い出せます。その時に頑張ろうと思った僕の思いは今ではだいぶ思い出すのが難しくなっていますが。


僕のお母さんは涙もろいです。すぐ泣きます。
テレビで感動ものがやっていると前後の話がわからなくても、ただ今の場面で出ている人が泣いていると一緒に泣いてしまいます。すぐ泣きます。そのことでよく僕は「なんで今見たばかりのもので泣くんだよー」と笑っていました。
子供の頃僕が悪いことをして、反省しなかったり口ごたえしたりすると手が飛んできました。それでも顔は叩きませんでした。いつも太ももを叩きました。怒りの中で、本当にどうしようもない息子へのほんの少しの優しさだったと思います。その時お母さんはいつも泣いていました。すぐ泣きます。叩いている自分に対して泣いているのだとわかったのはこれまたずっと後でした。
僕のお母さんはすぐ泣きます。


僕のお母さんはいびきがでかいです。
よく居間で横になってぐうぐうといびきをかいて寝ます。「また寝てるー」とよく言っていましたが、仕事に家事と忙しく、ちょっとの時間も寝たかったんだろうなと思います。
そんなこと馬鹿なクソガキの僕は知らなかったので、お母さんが寝るとすぐにいたずらをしました。足をくすぐったりわさびを鼻の近くに近づけたり「逆噴射」といってストローを鼻の近くに近づけて一気に息を吹いたりと無い知恵絞って悪事の限りを尽くしました。実際にそのいたずらが楽しかったです。目を瞑り口をちょっと開けて小声で「やめてよ」と言うお母さん。そしてまた眠りに入るとすぐにいたずらをするということを何回もやりました。
どれだけ迷惑なことか今になってわかります。本当にごめんなさい。
お母さん、あのいびきがまた聞きたいです。僕にとっても一番の唄です。僕にとっての「ヨイトマケの唄」はお母さんのいびきです。お母さん、あのいびきがまた聞きたいです。


「母の日」があるおかげで365日のうちの1日をお母さんのことについて真剣に考えることができます。でも照れくさくて何も言えません。たぶん花が届いていると思います。それでわかってください。それくらいしかできません。
誰のお母さんもそうですが、僕のお母さんは世界にたった一人しかいません。他にはいないのです。絶対に失いたくないです。一番大切にしたいです。
困らせ、怒らせ、泣かせ、呆れさせといつも迷惑かけてばかりでした。そして今でも困らせ、怒らせ、泣かせ、呆れさせています。まだ何もできていないです。そしてこれからも何かできるかわかりません。ごめんなさい。
書く前はいろいろと考えていましたがいざ書き始めると全然まとめることができません。
でもお母さんを思う気持ちだけは変わりません。


今日も居間で大きないびきをかいているでしょうか。お父さんとくだらないことで口喧嘩しているでしょうか。何かのテレビを見て泣いているでしょうか。寝る前にアイス食べようと考えているでしょうか。
そんないつもの日々であってほしいです。そんなお母さんであってほしいです。いつまでも僕のお母さんでいてほしいです。


お母さんは強いですが僕は弱いです。臆病です。わがままです。だから僕はお母さんより先にこの世からいなくなりたいと思います。親より先に死ぬのが一番の親不孝と言われますが、僕はお母さんが先に亡くなるのが怖くてたまりません。そして僕は死ぬのが怖いです。だから二人ともいつまでも死なないようなことが起こらないかと本気で思っています。


叱ってくれてありがとう。
心配してくれてありがとう。
叩いてくれてありがとう。
喜びを隠して興味のない素振りで控えめに褒めてくれてありがとう。
生んでくれてありがとう。


ありがとう、お母さん。