これでいいのだ(天才バカボン理論)

いつもお世話になっている居酒屋さんで今夜は一杯。
4月から役割増えたり、みんな良い人なんだけど長々と話をされたり前話した話をもう一度初めてのように話されたりと気を遣うことが多くて最近疲れ気味だった。悪い人ではないし早く覚えてほしいということだと思うんだけど、全員年上なので言い出せず。言おうとすれば言えるんだけど、今はそういう時ではない。


そんな感じでプスプス頭から煙が上がり始めていたけれど、仕事及びそのストレスは家に持ち帰らないと決めているので今夜は居酒屋。事前に許可は取っている。定時で帰ってイライラぶつけるよりはどっかで飲んで帰ったほうがまだマシだろうと勝手に思っている。


とはいえ愚痴の酒にはしたくないので入ったら後は飲んで楽しむだけ。先にバイク仲間の人もいてお互いの近況やくだらない話もできた。
これも全部この店のおかげだ。人との繋がりを生んでくれるし、居心地がいい。お客が増えるたびに忙しくなっていく中、ちょいちょい話しかけてくれたりもしてありがたい。一生懸命働いている姿を自然に見せてくれて、でも強制しないこの形が最高に居心地がいい。だから負の酒にならず楽しい酒になる。お酒は楽しい時に飲まないとね(飲まずにいられない時があるのもわかる)。


楽しいことだけ考えてやって生きていきたい人なので、早速そんなことばかり考えていた。
金曜休みにして四連休にしたから、明日以降やりたいことを店で飲みながらToDoリストにして、順番考えてと、それだけで楽しい。ましてやこれで考えていたToDoが全部できたらもう最終日の日曜はエレクト(死語)しそう。


飲みながらふと、夏目漱石の『吾輩は猫である』の「呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする。」という一節を思い出した。父もそうであ……いや、そんなことないな。毎日を楽しく過ごそうと思っているだけだな。
刹那的に生きているけどいいのだろうか。楽しいからいいのだろう。とりあえず良く飲んで良く寝ればいいのだ。赤塚先生の言葉が全て、これでいいのだ。