ありがとう

桑田佳祐が歌う『ヨイトマケの唄』をリピートで聴きながら最後の追い込みをしている。
ヨイトマケの唄』、本当に素敵な曲だ。勝手に自分に重ねてしまう。おふくろは健在だし親父もいる。それでも勝手に重ねながら聴いてしまう。
「高校も出たし大学も出た」し、「今じゃ機械の世の中」になり、「おまけに僕はエンジニア」になることができそうだ。自分の力ではなく、周りの支え、特に両親のおかげだと心から思っている。
両親は共働きで、私は鍵っ子で家で親の帰りを待つ日々が小学校に入ってから始まった。不思議とさみしくは感じなかった。きっとそれだけ親が帰ってきてから寝るまでかまってくれたんだと思う。
親父は有機溶剤を使う仕事の関係で家に帰ってくるとシンナーのような臭いがしていた。子供の頃はその臭いが強烈で苦手、嫌だったけれど、今となってはその臭いが懐かしくてしょうがない。
おふくろは家に帰ってくると「こえなぁ、ふぅ」といつも疲れている感じだった。それなのに私はおふくろの辛さを考えず「早くご飯作って」と言っていた。ひどい子供だったと思う。今はその手と肩を揉んであげたくてしょうがない。
大学に行きたいと言った時、浪人・私立は禁止、奨学金を受けること、という条件で認めてくれた。認めてからは特に何も言わなかった。調子はどうだ、勉強しろ、頑張れなんて一回も言われたことがない。今思えばそれなりに気を使って心配しつつ見守ってくれていたんだと思う。働いている親のほうが忙しいのに毎日朝ご飯、昼の弁当、夕食を作ってくれていた。
受験生の夏、奨学金予約の面接のために書類を作った。提出書類の中に親の収入証明書があった。その頃は収入証明書の見方や世間の懐事情がほとんどわからなかったので、中を見た時も特に思うことはなかった。
その後、大学に入り多少世の中のこともわかるようになると、いかに自分にかける教育費が家計を圧迫しているのかがわかった。大学に入ってから正式に奨学金の手続きをする時や、返還の保証人をたてる時など、収入証明書を見ることが度々あった。その度に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。それにもかかわらず、院に進学したいと思った自分は本当に馬鹿だと思う。それでも親はお前がやりたいなら、と認めてくれた。
院に入ってから何度か帰省したけれど、その時に親父が好きなタバコとパチンコをやめたことに気付いた。そのぶんのお金が自分の授業料に回っているというのはさすがにわかる。「タバコもパチンコも休んでいる」と親父は言うけれど、そんなわけがない。普段アホなことはよく喋るのに肝心のことは言わない。息子にそっくり遺伝した。
私を大学に行かせるのは正直厳しかったと思う。それでもそんな風には見せず、帰省するといつも親父のアホ話とおふくろのたくさんの料理でむかえてくれた。子供の頃からああしろこうしろとは言わなかったけれど、言葉ではないもので教えてくれたんだと思う。全部に気付いたかどうかは自信がないけれど。


どんなきれいな唄よりも
どんなきれいな声よりも
僕をはげまし慰めた
父ちゃんの唄こそ世界一
父ちゃんの唄こそ世界一
母ちゃんの唄こそ世界一
母ちゃんの唄こそ世界一


親父は吉幾三の「雪國」をいつも風呂場で歌っていた。子供の頃親父が「雪國」を歌い終わるまで湯船からあがらせてくれなかったことは今でも覚えている。そして「雪國」も歌詞・メロディともに今でも覚えている。
おふくろは台所で若かった時に流行った歌をよく口ずさんでいた。決してうまいわけではなかったけれど、聴いているほうが自然と覚えてその曲を好きになってしまう。一人暮らしをしてから「神田川」「木綿のハンカチーフ」などをおふくろみたいに口ずさむことが増えた。
「雪國」「神田川」「木綿のハンカチーフ」が私にとってのヨイトマケの唄になっている。


大学に続き就職でも地元に帰らない自分がいる。親は「この先も地元に帰ることなんか考えなくていいんだ。自分のやりたいことやればいいんだ」と言ってくれた。どこまでが本心かわからないけれど、結局またその言葉に甘えることになってしまった。「自分のやりたいことをやればいい」―――いつもそう言ってくれた。親の気持ちを言わないからといって無責任発言ではなく、私のことを思って言ってくれていると感じる。自分で決断し、自分で責任を取ることを教えてくれた。
子供の頃は叱られてばかりだった。叱られて叩かれてばかりだった(私がどうしようもないくらい悪ガキだったせいだが)。思春期を迎えた頃からは親が嫌いでしょうがなかった。叱られてばっかりで自分は親に嫌われているんだと本気で思ったこともあった。一緒に住んでいる頃はあんなに嫌いだったのに、今は好きで好きでたまらない。何よりも大切だとはっきり言える。
育ててくれてありがとう、お父さん、お母さん。