悲惨のなかの希望

7月に入ってどこもかしこもサマータイムモードに入った。出勤時間はどこも早めているけれど、じゃあ退勤時間を強制的に以前より早くしている企業はどれくらいあるのかな?退勤時間を早められるよう施策を打っている企業はあるのかな?有能で、頭のいい人がマネジメント層にいると思うけれど、結局は「個人個人の努力にまかせる」とかいうわけのわからない戯言を言ったりしないよな?

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こういうこと言って、「足りない、だからやっぱり原発必要でしょ?」という流れには絶対にならないでほしい。


東日本大震災復興構想会議のHPに先週掲載された「復興への提言〜悲惨のなかの希望〜」というファイル(PDF)が、短いながらも3・11のことと今後をしっかりと記してあり興味深かった。
http://www.cas.go.jp/jp/fukkou/pdf/kousou12/teigen.pdf
「破壊は前ぶれもなくやってきた。平成23年(2011年)3月11日午後2時46分のこと。大地はゆれ、海はうねり、人々は逃げまどった。」から始まる。
以下の文章には非常に心を打たれた。


「被災地の人たちは、「つなぐ」行為を重ねあうことによって、まずは人と自然の「共生」をはかりながらも、「減災」を進めていく。次いで自らの地域コミュニティと地域産業の再生をはたす。「希望」はそこから生じ、やがて「希望」を生き抜くことが復興の証しとなるのだ。
被災地外も同様である。たとえば、東京は、いかに東北に支えられてきたかを自覚し、今そのつながりをもって東北を支え返さねばならぬ。西日本は次の災害に備える意味からも、進んで東北を支える必要がでてくる。そしてつなぎあい、支えあうことの連鎖から、「希望」はさらに大きく人々の心のなかに育まれていく」


被災地外の人こそ読んで「思う」ことが重要だと思う。いかに東北に支えられたかがわかったし、絶対に支え返さないといけない。同じニッポン、支え合いたい。困っているところがあったら助ける、単純なことを愚直にやれれば、何年もかかるかもしれないけれど、きっと戻って行く。


先月被災地に行って撤去作業をしてきたけれど、あの現場を見たら絶対にまた何かしたいと思う。はっきり言ってショックを受けた。そのショックは東京に戻ってきてからのほうが大きく感じた。
何事もなく震災の影響が見えない東京の生活とのギャップにショックを受け、でもそこで生活している自分に違和感を覚えて苦しんだ。心がもうちょっと強ければ気にせず過ごせるのだと思うけれど、甘ちゃんにとってはちょっと無理だった。そもそも心が弱いから現場にどうしてもいかないとダメだと思ったんだけど。
これも一種の惨事ストレスなのかな、と思う。あの現場を見たらどうしても普通の生活に悩むし疑問を抱いてしまう。少しずつ自分の中で消化していかなければいけないことだけれど。
自分の家が津波で流されたら、地元が立ち入り禁止区域になってもう戻れなくなったら、と思うと他人事ではいられない。あの現場を見たらショックを受ける。でも、何かまたしたいという気持ちになる。
警察、自衛隊、ボランティアと、避難所から少しでも何か見つからないかと来る地元の方しかいない町がある。そういう町がある。
作業前は瓦礫にしか見えなかったモノが、作業をすると全て大切な思い出の品に見える。出てきたお皿を見て、どんな家族のどんな食卓があったんだろう、と思うと捨てられず、ボランティアセンターへ渡す袋に入れた。
原発と節電しか報道されてこなくなった今、仮設住宅ができさらに復興が進んだように一見思えてくると、被災地の方はどうなるんだろう。報道されなくなった時、被災地の苦しみがまた始まるような気がする。
また現場に行って作業をしたいと思う。猛暑の中長袖、ゴーグル、マスクで全身を覆った状態で作業をするのは辛いと思う。でも行きたいと思う。実際にできることはほんのわずかなことだけれど、やらないよりは絶対にやったほうがいい。


農作業用の日よけ帽子をかぶり、埃で真っ赤になった目をしたおばあちゃんが言った「また畑を作りたい」という言葉に、悲惨のなかの希望を感じた。
悲惨のなかの希望は、絶対にある。だから忘れたくない。思うこと、忘れないことも復興支援だと思う。