『遠野のザシキワラシとオシラサマ』を読んだ

柳田國男遠野物語』の語り手の佐々木喜善が残した、ザシキワラシやオシラサマについての貴重な民俗資料。いわば遠野物語のベースとなった話が多数収められている。
昔の文体なので結構難解に感じる部分もあるが、それでも読んでいてわくわくしてくる。ザシキワラシについてこれだけ調査したものはないのではないか、と思うくらい広く多く聞き取りまとめている。当時の人々の目撃談や先祖代々伝わってきた話が事細かに記されていて、その時代の空気が伝わってくる。
ザシキワラシとオシラサマのこと以外に「子供遊戯神の話」と「秋田三吉さん」についての話も収録されている。こちらもまた非常に興味深い民俗資料になっている。「秋田三吉さん」では、昔話でよく聞く巨人のダイダラボッチが秋田にもいたのではないかという仮説から始まる。妖怪好きでなくても大体の人が知っているであろうダイダラボッチが秋田にも、という驚きから話にひきこまれていく。秋田の太平(たいへい)は、読み方を変えると「ダイダイラ」、つまり秋田にある太平山のお国神の秋田三吉神は、実はダイダラボッチではないのかという説を唱える。この序盤の展開を読んだだけでわくわくが止まらなかった。巨人ダイダラボッチ=秋田三吉神であれば三吉神の怪力の強い根拠になる。うわあ、面白いなあ、と思いながら読んだ。
一方、現代では妖怪とかはもはや意識されていない、必要とされていない気がする。今の子を持つ親は、子どもに妖怪の話や昔話をするのだろうか。今の子どもたちは枕返しの話を聞かされ布団に入ってもドキドキしながら眠れない夜を(結局寝てしまうのだが)過ごしたことがあるのだろうか。雷がなるとヘソを隠しているのだろうか。本書には目撃談や近所の話が非常に多く書かれている。と、いうことは当時妖怪は非常に人々の近くにいたのだと思う。全員が合わせて嘘を言うはずがない。誰もが当たり前にザシキワラシを見たり感じたりしていた時代が確かにあった。現代はなぜそうではないのだろう。近代化で住みづらくなっているのだとは思う。「いない」のではなく「姿を現しづらい」のだと思う。そう思いたい。説明できない出来事を怪異と思いたいし、妖怪はいると思いたい。佐々木喜善の時代にこんなにいたのだから今でもいるはずだ。会いたいなあ。
解説の桜庭一樹氏の「この国がいつまでも、こういった怪異に満ちていてくれるといい。目には見えない豊かさに。うつくしい自然や、名もなき先人の歴史に支えられた、敬虔な気持ちに。」という言葉が全てを語っている。この言葉にただうなずくだけだ。
去年カッパを捕まえに遠野に行ったが、本書を読んだらまた遠野に行きたくなってきた。


個人的遠野物語2007 1
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