『心にナイフをしのばせて』を読んだ

高校入学から二週間。15歳の高校一年生の少年が同じく同級生を校舎近くでジャックナイフを用い刺殺。
胸部十二ヵ所、背中七ヵ所、頭部十二ヵ所、顔面十六ヵ所の計四十七ヵ所をめった刺し。
さらに犯人は被害者を刺殺後、首を切り落とした。


事件後被害者の母親は二年間寝込み、さらには睡眠薬による自殺未遂まで行ってしまう。精神的に不安定なまま過ごす。
兄に期待し続けてきた母親がそのようになった姿を見て、妹は「兄ではなく私が死ねばよかったのではないか」と思う。抑えきれない感情と性格。本人が「猛烈な痛みで、心の中が現れたようにすっきりする」というリストカットで現実の問題から一時的に逃げる。
同じような精神状態になってもおかしくないはずなのに、そんな母親と妹の前でただひたすら我慢し続け耐え続けた父親。家族の前では気丈に振る舞うも親戚の前ではすすり泣く。事件後洗礼をうけ聖書に救いを求めた父親。孫ができようやく幸せが訪れたと思った途端にガンですぐに逝ってしまった父親。
地獄。地獄のような日々を過ごした被害者の家族。


そして、犯人の少年は
現在
「弁護士」
になり住んでいる町では名を知られる名士になっている。


全て実話。1969年の春に本当にあった事件。そして被害者家族にとっては今も続いている話。
この本はその事件と被害者家族のその後を書いたルポルタージュ


読み終わった後怒りと悲しみがこみ上げその後ぽっかりと穴が空いたような空しい気持ちになった。
なんだこれは。こんなことが本当にあっていいのか。
被害者と加害者のこの差はなんだ。おかしくないか。


序章の「白昼夢」で眩む。
家族の話、事件、事件後と続く。被害者家族が自ら語る話が重い。でも絶対にここでやめてはいけないと思い読んでいった。
事件後の家族の崩壊、地獄のような日々。犬や猫、喫茶店開業、妹の出産といった明るい話もある。しかしそれでは到底癒せないほどの地獄がある。
犯人と家裁調査官とのやりとりがある。
「魔がさすという言葉があるだろう。悪魔がとりついたようにとんでもないことをした感じか?」
「百%ありえない。一般の場合でも、一切は過去の人間に関連して生じるのだから」
「事件後大きな気持ちになったか?」
「事件をプラスに生かして絶望的になるまいと考えた」
自分のやったこと、自分のせいとしてとらえていないうえ、「事件をプラスに生かす」と前向きにとらえている。おかしい。おかしいからこそ事件を起こしたのかもしれないが、おかしい。
そしてこの犯人は変わっていない。父親が亡くなり、喫茶店の家賃を滞納してしまい、母親にとって何かに夢中になることで事件のことを少しでも忘れようとする役目と精神安定の役目も兼ねていた喫茶店を失ってしまうというときのことが書いてある。
事件後約束した慰謝料も最初の二年間しか払われず、金銭的にも困窮したときに弁護士となった犯人に連絡をした。
「少しぐらいなら貸すよ、印鑑証明と実印を用意してくれ、五十万ぐらいなら準備できる。今は忙しいから一週間後に店に持っていくよ」
の言葉が返ってきたという。貸す?謝罪は?実印?おかしい。こういうことを言える感覚がわからない。
その後犯人が喫茶店に五十万を持ってこようとする。途中道を聞こうと電話してくる犯人に母親が言う。
「お金のことはいいです。それより、話し合いをしたいからこっちに来てください」
犯人は
「なんだって?お金が必要だというから来てやったのに、今さらなんだよ!」
と言い返す。さらに
「一度でいいから謝罪にきてください。一度も来てくれてないじゃないですか。全然、音沙汰もないじゃないですか。謝りに……、なんで謝りに来ないんですか。聞いてないですね。謝罪に来てくださいよ。謝ってくださいよ」
と言う母親に
「なんでおれが謝るんだ」
と言う犯人。
読んでいて気持ち悪くなった。
これを更正したというのか?人の姿をした外道がいる。これが更正なのか?


事件後一言も謝罪はない。お金の問題ではもちろんないが、金銭の贖いもない。墓参りも一度もしていない。
そして加害者のプライバシーは固く守られる。
少年法により殺人を犯しても「前歴」となり「前科」にはならない。つまり刑事処分はない。矯正教育や治療は当時の少年院では最長三年未満なので殺人を犯しても18,9で外に出る。
前科にはならないので少年院を出た瞬間に殺人という犯罪歴が消える。
少年院を出た後、犯罪歴はもちろん全てリセットした。姓を変え住む場所を変えた。
有名私立大学に入り自分の学びたいことを学び卒業、その後また別の有名私立大学で勉強しなおした。
そして弁護士となり、やがて結婚し家庭を持ち、東京近郊にマンションを購入。順風満帆である。
加害者がそんな人生を歩んでいる時、被害者家族は壊れるだけ壊れ毎日もがき苦しんでいた。


こんなことが現実にあるのか。
被害者の母親は現在アパートで年金に頼る生活をしている。
かたや1969年に15歳で殺人を犯した加害者の外道はどこかの町で弁護士として満たされた生活している。
本当にこんなことがあっていいのか。
更正とは何か。
しっかりと社会復帰しているこの男は一般的には「更正した」といえるかもしれない。
ただ、私はそうは思わない。
私は「罪を犯したことを反省し被害を加えてしまった相手に謝る」ということが更正の最低限の条件だと思う。反省し謝ることで許されるわけではないが、最低限その気持ちが生まれないと更正とは言えないと思う。
その考えからこの男を見ると、殺人を犯した日から全く更正していないように見える。
もはや法の限界を超えている。
「『なぜ人を殺してはいけないのですか』と聞かれたらどう答えるか」ということがしばしば言われるが、「なぜ人を殺した人はもう一度生きるチャンスを与えられるのですか」という問いに対する答えも考えたほうがいいと思う。
人の命は何より重い。それはみんなわかっている。それなのにその命を奪った人間はまだ生きることができる。一番重いものを奪ったなら、反省し謝罪し自らの命で償うべきであると思う。
「一人なら死刑にならない」「未成年だから大丈夫」という声が事実ある。人数や年齢を問う必要があるのだろうか。
人の命を奪ったなら自らの命で償う。


事件は日々テレビやラジオ、新聞、インターネットで知ることができる。
しかし、被害者のその後を知ることはほとんどない。
この本は被害者の家族が自ら語るという形になっていて、まず知ることのできない事件後の犯罪被害者の姿が見える。その点で非常にこの本は貴重であると思う。
現在の制度はあまりにも加害者の人権保護と更正に力を入れすぎている。まずその前に、それよりも被害者へのケアと保護だと思う。


あとがきの
「今も毎日のように犯罪被害者がつくられ、言いようのない苦しみに人知れず耐えている。彼らの苦しみが世に理解されるためにも、一人でも多くの方に本書が読まれることを願っている。」
という言葉に全面的に同意する。
本当にこの本が一人でも多くの方に読まれてほしい。


心にナイフをしのばせて

心にナイフをしのばせて